Write to Do the Right Thing

I create things and write about them here as well as other stuff. Views are always mine.

What matters for materials writers and others. 教材から英語教育を見る

ぼくは自分は英語の先生や英語教育の政策実行者と考えていないのですが,教材を書く上でどのような英語を一般的な学習者が「学んだり」「生み出したり」すればいいのかはよく考えます.
 
そこで,いろいろな面で疑問を感じさせられる点を挙げていきます.
 
まずは英語学習者・教育者どうしでのピントの外れた問題の見方です.「よりまし」な英語教育や英語学習,英語教材の検討は冷静な視点で,誰かを責めるとかいうことを基準にするより前に問題そのものを深く見つけるやりかたで行なわなければいけないのに,変な部分で人の業績を評価することです.ぼくにとって謎なのは「努力」です.
 
ぼくには,他人の努力を自分が定義した努力の尺度で構成された物語の有無によって評価することを英語学習や英語教育の分野だけではやめてほしいという思いが強くあります.その努力観で儲けている人やそれによって傷ついている人を見たくないからです.でも,これがポジショントークと云われればそれはそうかもしれませんね.
ちなみに,ぼくは多読や音読,そして訳読(古典的な英文解釈)の重要性への主張を一理あるとは思っていますが,かなり引いてみています.各派の問題点はここでは述べませんが,一番の問題は努力観だと考えています.
 
 多読や音読,訳読そのものが即いけないわけではないのです が,なぜか単調な作業を掃除当番を押し付けられた感覚で量を繰り返して多大な努力と量で成し遂げる側面ばかりが強調されインプットに当事者意識を持たせることは無視するか嫌われるとこになっとくがいかないわけです.多読の創始者と思われるStephen KrashenはMeaningful Inputとか云ったのではないですか…
 
そして,困ったことに,そういう工夫を教材に入れることもあまり好まれない,わけです.どうしてだろうといろいろ考えていたのですが,簡単に云えば「気づき」というのは大事だけれども,「気づいて」もらうのは大変なわけです.そこで,意識しなければならないのは,Mind the gapという大事な概念で,教える側が無邪気に考えるほど全ての学習者が英語に興味を持つわけではないわけです.段階的な学習より,他人に勝つ効率性を求める人もいる.「できない」学習者からすれば「できる」指導者が何か難しいことを自主的にするのを期待しているのが腹立たしいという人もいるのでしょう.
 
さて,もうひとつのポイントは教材に使われている英語の問題です.これは云い換えれば,教える側が教えられる側に「理解してほしい」「生み出してほしい」英語を指すことになります.
 
しかし,このイメージがハッキリしていないようです.よく,実際のコミュニケイションではやさしい英語をネイティヴは使っているということを云いますが,じつのところを云うと「コミュニケイション」や「やさしい英語」の定義が曖昧だったりします.
 
ここでぼくも好きなケリー伊藤さんなどが主張するPlain Englishを考えてみましょう.英語が母国語の人にとってplain Englishとは完全に話し言葉そのもので書いてしまう人が学校教育で書き言葉を習うのですが,学んだことを過度に適用しようとして「わかりにくい」「気取り過ぎた」英語を書い てしまうという,受けた指導を過度に一般化してしまう教育の負の部分への気づきから生まれたものだと思います.その英語を外国語として英語を学んでいる日本人の インプット・アウトプットの理想を見いだすのは卓見だとは思いますが,ネイティヴが時間をかけて習得することを簡単に出来るように考えるのは早計だと思います.
 
だから難しいことをやれという訳ではないですが,外国語である英語の基本語義のイメージづくりにはより時間をかけて質の良いインプットをつくる環境を考えないといけないのではないでしょうか.
 
ちなみに,ここでインプットとアウトプットに関して,debateなどができる英語教育を目指す英語教育「改革派」と昔ながらの難しい英文をパズルのように読むという英語教育「守旧派」の考え方のどちらにもぼくはくみしないことを添えておきます.
 
ぼくのあくまで個人的な考えですが,読解(主に精読)を犠牲にしてもスピーキングに日本の英語公教育がシフトしていくと国民の多数が望んでいるならそれはそうするのが正しいと思います.でも,それなら下手に近代人ぶってdebateなどせずhoi polloi(一般大衆)の素朴な話し言葉を見つめるべきです.
 
 乱暴な云い方で申し訳ありませんが,ぼくが嫌いなのは守旧派に多い「教養あるネイティヴスピーカーの英語を」という人たちは「君たちhoi polloiとは違うワタシタチが知識を教えてあげよう,くたばれこの愚民めが」という立場でモノ云っていることです.そうですかぼくは愚民ですから愚民らしく素朴な英語を学びます,と思ってしまいます.

 

彼らが良く云う,基礎知識がなくてアウトプットは出来ないという考え方は全面的に同意するが,その人たちが日常生活の会話なんてくだらなくて知的な中身がどうのこうの,というのが正直わかりません.昨日のことや自分の将来を素朴な英語で話せない人が「日本人にとって民主政治とは何か」を話せるわけがないはずなのですが.

 

ちなみに,ぼくから見るとかなり凄いアメリカ人のライティングの先生に「日本人は目の前のことから抽象 的なことを考えられないか,訓練が不足してのではないか,という印象を大学生を教えて感じる」と云われたのを思い出します.一 般的に日本人のライティングの先生の云うこととは逆ですが,考えさせられる部分だと思います.

 

さて,今度は 改革派のアウトプットを重視する人たちの多くに対する疑問なんですが,たかだか英語教育のレヴェルで「三段論法」「三角ロジック」とか要るんですかねえ.そういう日本では野矢茂樹さんらの「形式論理」は立派な研究でしょうが本当に英語のアウトプットに要るかは疑問だと考えます.

 
 ちなみに,今度出す(結局夏になりそうです.いまページのレイ アウト見本を編集の人が作ってくれてます)スピーキング本ではあっさり「論理」は「つながり」「まとまり」のこと,としています.そして,その程度で英語教育としての「論理」は十分だとぼくは思っています.

 

やっ ぱりマクロが見えていれば目の前の英語が他人事じゃなくなってくる.そうすれば試験対策もそれだけじゃ自然になくなってくるわけだし,新しい語彙や表現や文構造を学んだり,発音を磨くのに自分にムチを打たなくても楽しく継続的にできるようになるのでは,と思ったりするわけです.

 

で,そんなことから,ぼくが考えた日本での英語教育改善に向けての「よりまし」な解決方法はこれです.

TOEIC Part 3形式の3-4 turnsの「つながり(cohesion)」と「まとまり(coherence)」のある会話スクリプトを学習者のレヴェルを見ながら英語を調整して書 ける人材を世に出す.
これだって簡単じゃないです.でも,これが不可能なのにに口語英語への移行は無理だと思います.
 
とりあえず和訳だとか設問とかはいいから,それに場面や内容はTOEICに似ていなくていいから,本物のPart 3並みに情報が自然に展開するものが書ければmaterials writerとしてはかなり優秀だと思います.ネイティヴ含め書ける人はわずかしかいないでしょう.Turnは本当はいくつにしてもよいのですが,せっかく対話にしていても,単語を文法のパズルに当てはめたような会話なら意味がありません.かと云ってYouTubeで見つける自然なネイティヴ会話をあっさり初級者・中級者が自分で選んで教材にできるなら苦労はないわけです.
 
その流れを踏まえて,確かにすべての大学が入試をリスニング50%(客観形式)でライティング50%( えられたpromptに応えるだけ)としたらスッキリするかもしれません.リーディングの能力はリスニングで測れるし,スピーキングの能力もある程度はライティングで測れる(会話能力は測れないけどそれはTOEFL iBTでも同じこと)わけですから.