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Write to Do the Right Thing

I create things and write about them here as well as other stuff. Views are always mine.

Do not over-generalize overzeneralization. 問題がなぜか膨れ上がるとき

 

Teaching and Learning Pragmatics: Where Language and Culture Meet

Teaching and Learning Pragmatics: Where Language and Culture Meet

  • 作者: Noriko Ishihara,Andrew D. Cohen
  • 出版社/メーカー: Routledge
  • 発売日: 2010/05/20
  • メディア: ペーパーバック
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 ぼくが好きなことわざにThe road to hell is paved with good intentions.ということがあります.良かれと思って悪いことをしてしまうことはよくあることです.

最近気になるのは,昔から良く行なわれてきたパターン化された教え方の不備を指摘するのはそれはそれでいいのですが,それがまたパターン化するというのがなんだかなあ,と感じさせられます.

たとえば,悪名高いhad betterも,確かに「…する/したほうがいい」と教える先生はまだいるのでしょうが,コンテクスト次第で

had betterをshouldに変える(どうせ変えるならmight/may want toにすればいいのにと思ったりしますが,それは話がそれるので置きます)

had betterを使うな

的になってくるのはどうかな,と感じます.じゃあ,海外ドラマを使って,ティーンの主人公たちがわるさをしていて,

Somebody is coming. We'd better go.

というのを聴いたら,「あれ,使うじゃん」ということになってしまいます.そして,結局,この表現がもつ「…するとまずいことになる」的な恐怖をほのめかすようなニュアンスは学ばないまま,また使い続けることになります.

個人学習者に焦点を当てれば,そういういろいろな勘違いを繰り返していて,自分の英語を処理し生み出すOSをアップデイトさせることはいいのですが,昨今,間違い・不不適切な個所を誰かが正当に批判/指摘したとしても,それらを表面的にとらえてしまって,その事項が自分の嫌いなものを糾弾するリトマス試験紙のようなものになってきている事例を見ます.でも,そういうのって,ことばのあり方から考えると一番遠い視点だと思うんですね.平たく乱暴な例えをだせば,受験英語が品詞と5文型中心の偏った読解スキルを導入する可能性を包含するテストだったりシステムだったりするのは外側の人間であるぼくから見ると強く思いますが,外部試験などの別の試験を課したって,典型的な解法や頻出問題に走ればたとえスピーキングが一部入っていてもそれほどの改善は見込めないわけです.いやテスト自体は変えても一向にかまわないのですが,「テストのための勉強」「テストが学習者を動機づける」という発想は受験英語万歳の人とたいして変わらないわけです.

話が少しそれました.ポイントは短絡的なものを短絡に否定するのはどうかな,という話です.結構その事例をよく見ます.ただ,またその状況をまた短絡的に否定してもよくないので,常に完全な公式を求めるよりも「よりまし」な道はないかとぼく自身が考えています.