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Write to Do the Right Thing

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Look at the bigger picture. 初級者を救うために必要なこと

TESL

春になると各出版社は一斉に新しい教材を出してきます.ぼくが関わった教材もいくつか出ます.加えて,NHKの英語番組なども新年度(new school year)が始まります.数年前から,NHKの英語番組にはCEFR Level的なものが記載されるようになりましたね.こういう記載は,実はアメリカのMcGraw-Hillなどの出版社も単に,難しいHighly AdvancedだったらC1などと今まではそんなことを考えていなくて作られた英語教材に入れ始めたことを知っているので,特に大きく批判するつもりはあまりありません.でも,ところで,何でCEFRやACTFLなどの能力記述が必要とされる(べき)なのでしょうか.

もちろん,きちんとした段階別な到達基準の明示化が行なわれることで,バランスの取れた指導を先生がすることを導いたり,あるいは適切な教材制作が行なわれたりすることもあるでしょう.ただ,抽象的な記述をどういう語彙・表現・文構造を使うのか具体的な要素に落としていくかという問題は,アイテムライターの個々の手腕に今のところは委ねられていて,逆にgovernanceを行なう教材制作出版社や各種英語教育団体ははっきり書いてしまうとほとんどの人はそこまで到達していなくて,(優秀な)書き手に変なプレッシャーをかけると帰って教材の質を下げてしまう可能性もあります(もちろん,優秀な編集者や英語教育のオピニオンリーダーの人もいるのでしょう).まあ,それは常に関わる学習者を「よりまし」に引きあげてしまう達人クラスのclassroom teacherにとっては規制なんて邪魔なものでしかないでしょうが,標準化というのはそういう達人ではなくはっきり書いてしまえば平均よりかなり下の人を平均値近くまで引き上げるために存在しているのですから,それと同じです(ここでの「平均」というのは抽象的な云い方に過ぎません).

しかし,ここで述べた到達基準の明示化というのは,本来,英語教育サーヴィスの提供側だけが利用するものではなく,本来は学習者のためにあるものなのです.で,この「学習者のため」というのも,よく芸能人やスポーツ選手が「ファンのため」という言葉やサーヴィス産業における「顧客第一」という考え方のように,拡大解釈して捉(とら)えられたり,例えば「英語公教育に携わる先生」や「英語教材の出版社」や「文科省の英語教育担当者」や「民間英語産業経営者」や「英語ができる日本人を必要とする経営者」が自分のエゴもしくは理想を押し付ける理由にされてしまいがちです.だから,ここ数年ですっかり導入されたCan-Do Statement/List(学習のねらいとして,項目ごとにマスターすると何ができるかの記述)を含めて,なぜそこに至ったのか,ということをいま1度考えた方がいいと思います.

学習者にとっての段階的な到達基準が明示されていることの重要性*を上げるために具体的な例をあげて見ます.英語教育に限らず何かを学んでいる人に対してのアドヴァイスとして「できる人ほど基礎を大切にする」という云い方をする人がいますね.ぼくは実はあまりこの表現が好きではありません.というのは,実のところをいうと,初級者にはこのアドヴァイスはあまり役に立たないからです.だって,基礎の大切さがわかっている人っていうのは,実践(応用)の経験者であり,基礎がそれらに与える効果をよく知っているから発言しているわけです.卑近な例をあげれば,文法がわかっていないと英会話ができない,というようなやつです.もし,自分が英会話ができなくて文法の大切さを語っているのであればそれは詐欺です.でも,英会話がわかって文法の重要性に気づいたとしたら,それはその人が基礎と実践をつなぐ機会を与えられたという事実に基づいたものなはずです.

で,そういう機会がない初級者にひたすら基礎の重要性を説いてもしょうがない(だって,それだと下手をすると「うさぎ跳び」強要と変わらない)ので,実践に於いて個々の項目がどう影響を与えるのか,というのがCEFR的な段階的な到達地点の明示化の必要性であり,またそれに基づいた上でここの学習項目のCan-Doな訳です.実際のところ,到達地点を個別の教育機関での学習内容を頭に入れた上で大胆に示すことはすごく難しいし,それを理解して各教育機関がCan-Do Statementに落としていくことはそう簡単なことではありませんし,大胆に一般化すること(時にはそれはover-generalization「過度の一般化」と訳すようです.ただ,日本語で名詞化すると美しくないのでぼくは使いません.多分,「一般化のしすぎ」的なという表現に変えて話すと思います.どうでもいいことですが)も止むを得ない場合もあるでしょうから,その精度自体にぼく個人があれこれツッコミを入れようとは思いません.だけど,基本的になぜこういうものがあったほうがいいのか,ということに教育行政側の大きな誤解があるのが気になります.

 

*もちろん,初級者は(時には初級者の指導者も)何が基礎なのか解っていない,という問題を解決するためにも到達地点の明示化は大事なのですが,それは過去にどこかで書いたのでここには書きません.