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Write to Do the Right Thing

I create things and write about them here as well as other stuff. Views are always mine.

「型」と「本質」について

ものごとを学ぶときに学ぶべきは「本質」なのですが,その「本質」を得るための道具として「型」の提示をオプションとしてすることがあります.ただ,本当は,「型」を強制するのはよくないのです.

スポーツでフォームを矯正するのはたぶんよくないでしょう? ただ,「本質」の難しいところは高度に抽象的だったりするから,どうしても「型」に頼ってしまうところがあります.

ぼく個人は英語教育をするには国がCan Do Listをつくり発表することだと思っていますが,Can Do Listに書かれることも抽象的だから(いや言語機能をこれだけ具体的に書いてるじゃん,と作る側は思うかもしれません),現場の先生にはそういうCan Do Listを渡されることが嫌いな人もいて,作るならば文法事項と単語にするべきと考えている人さえいます.このように作る側と与えられる側に見えてる景色が違うのはなんとかならないかな,と思います.

これは,英語や英語学習/教育に対する見 取り図というかbig pictureというか全体像というかそういうのが見えていないから,到達基準の明示化の重要性がわからないのだと思います.つまり,結局,言語観じゃないでしょうか.誰かに強制的に完全なものをなにかを植え付けてもらうか,自然に身につけていくというモデルしか頭にないから,自分の持ってい るシステムが不完全なものとしりながら,使いながら本物を観察して,徐々にシステムを改良していくという言語学習の本質が見えてこないのだろうとぼくは思っています.

自分の中にシステムをアップデートさせながら作っていくというイメージは少しずつでいいから浸透していってほしいところです.個人的にはここがSLAのキモぐらいにも思っていますので.

これを云ったら熱血英語教師のみなさんに叱られるかもしれませんが,「本質」と「型」の差に近いのが,学習者がどこで達成感(sense of achievement)を感じるのかというポイントです.本来はなにか学習言語に関する何かを習得したことを言語活動によって感じられるもののはずなのに,表面的な結果を得られるまでの過程としての努力の作業そのものにスポットが行ってしまう,ことがあります.失礼ながらそれはちょっと違うのではと感じています.

もちろん入試には合格がテストにはスコアがあり,それを目安にするのは構いません.ただそれと同時に「聴けた」「通じた」「わかった」など小さなsense of achievementをゆっくりと重ねていくこと.そっちのほうが大事だと思っています.まあ,主観と云われればしょうがないですが,言語学習自体は本来個人的なもののはずです.だから,自分なりのsense of achievementを重ねていけばそれでいいのだと思います.ただ,大まかな鳥瞰(ちょうかん)図がないと公教育はいけないから複数の到達目標の明示化=Can Do Listの作成をしたほうがいい,と繰り返しバカのひとつ覚えのように云っています.

実際はこれは標準化のようでいて支配からの解放をにつながるとぼくは信じています.だから,本当は,融通のきかない日本人を憂う人ほど,この到達目標の明示化の意味を理解してほしい,と思います.なかなか難しいがゆるやかな governanceや本質(原則)の提示が自由な教育や自由な思考を生むという一見逆説に見えるが実は当たり前のことをわかる人が増えるのがぼくの希望です.
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